いつも暖かかった森本先生

いつも暖かかった森本先生

城戸克弥

9月3日の午後、九州大学総合研究博物館(以下博物館と略記)の部屋で丸山宗利先生と雑談をしていた。
話が終わり先生は部屋を出られたが間もなく戻ってこられ、「森本先生の御子息から先生が亡くなられたと連絡がありました。」と告げられた。

つい最近まで穏やかなお姿を見ていただけに、私は「えっ」と言ったきり声も出なかった。
どうしてという思いが先に立ってしまった。
先生がご病気だったことはよく分かっていたが、それでも奥様と共に時々博物館のご自分の部屋にお出でになっていたからである。

先生の経歴やお仕事についてはアマチュアの私が述べるまでもないが、お付き合いさせて頂く中で先生のお人柄やお仕事の様子を垣間見てきた一人として思いを書いてみたい。

先生と知り合ったのは1975年で、もう40年以上も前となった。これがまた無茶なお願いをしたと今でも感じている。
当時私は地元の教育大学の3年生で、趣味で大学の裏山にあたる城山の甲虫目録を作る作業を進めていた。何でもかんでも採集していたので図鑑で同定できないものがぞろぞろと出て困り果てていた。

カミキリの林匡夫先生と知り合うことがあって、いろいろな分野の専門家の先生をご紹介頂いた。「私(林先生)の名を出して良いから手紙を出してみてください」との言葉もあったので、森本先生にも手紙を差し上げた。

御返事はなく、あとで分かったのだが、先生の机の周辺には常に同定依頼の小箱・標本箱が山積みされていたのであった。
とてもではないがこれ以上はお願いするのも無理というのもあとになって感じた。
それで他の方にお願いしたところ「大体のところであれば見ますよ」と連絡も頂いていた。有り難かった。

そうこうする中で、チョウの白水隆先生に手紙を出す機会があり、ついでに事情を書いて「どなたか他の方を紹介頂けないだろうか」とお話しした。
白水先生からすぐに御返事を頂き、「森本君以外はいません」と断言された。
続けて、「忙しいのだと思う、人の良い人間性なので頼めば何とかしてくれるはずだし、私の弟子でもあるので」と書かれ、ご自身の名刺を同封されていた。

そして少々強引だけどこの名刺を入れてすぐに標本を送る様にも書かれていた。
名刺には「すぐに城戸君の標本を見てください。」という事だけが書かれていた。
さすがに私も驚いて白水先生に御電話をして、「いくら何でも強引すぎませんか」とお話ししたが、白水先生は「きっと大丈夫ですよ」とおっしゃった。

いいのかなあと思いつつ、名刺と事情を書いた手紙、針刺しの城山産標本77頭を送った。
先生はさぞ仰天され呆れ果てられたことだろうと思うが、すぐにご丁寧な返事をくださった。

同定結果の内13種がsp. とあり、これはすべて新種ですと書かれていた。先生は「ノミゾウのまとめにかかっていて日本産の9割ほどの写真も撮ったところで、初めて見るノミゾウが2種あった。」と喜んでおられた。

また、同定結果にCurculio sp. とタイプされ、さらにペン書きでsp. の部分が消され、kojimai Morimoto コジマシギゾウとされた種があった。これが後に記載されるアカサビシギゾウのパラタイプの一つとなった標本である。

(図1:城戸,1997より)

なお、本種のホロタイプは久留米昆蟲研究会副会長の今坂正一氏が長崎県口之津(現 南島原市)で採集されたものである。

その後は毎年のようにゾウムシの同定をお願いし、そのたびにご丁寧なお手紙を頂いた。時には見分け方のメモや検索も添えられていた。また、こういう場所を探すといいですよといったご示唆もくださった。

先生は1978年に林業試験場から九大農学部に着任された。

(図2)

この年の暮れに頂いたお手紙に「この夏休みは久しぶりに分類の論文や採集などで楽しい日を送りました。」とあった。

その後、先生は退官されるまで毎年多数のまとまった論著を出されたことは周知のことだが、どのように時間をとられたのか不思議に思い伺ったことがある。

先生は朝は7時頃には大学に来られ10時頃の講義が始まる前の時間をそれに当てられ、夕刻の勤務時間後は次の講義の準備や調べごとに時間を割かれたとのこと。
「朝早く来るものだから部屋の解錠などを当然のように頼まれて閉口した」と笑っておられた。

1997年に退官されてからは農学部2号館という標本室の一隅で研究を続けられた。

(図3)

何度かお伺いしたことがあるが、電灯がないと真っ暗になる部屋であった。そこではもっぱら「The Insects of Japan」の短吻類のまとめをなさっていた。

私は2013年3月に教職を退職したが丸山先生のご厚意で4月から博物館に出ることになった。3月中から手続きや準備にかかっていたが、丸山先生から「(私が行くのを)森本先生が喜んでありますよ。」と告げられたときは嬉しかった。

私の部屋が3階で、4階には森本先生がおられた。建物の部屋の横の階段が一つしかなく、真上が先生の部屋だったのでたびたびお伺いする機会があった。

先生は朝7時頃には来られ、昼前にはお帰りになるという毎日だった。私の方はぐうたらで、思いついた日に10時頃からのそのそと出ていた。
先生に同定をお願いすることもたびたびあったが、先生はにいつも懇切丁寧に対応頂き、いつも申し訳ないほどの時間を割いてくださった。

その中で先生の経験なさったいろいろなお話を伺うこともたびたびあって時間を忘れるほど楽しく聞き入ったこともあった。その中から「叱られた話」を二つ。聞く方は楽しいのだが。

コメツキモドキは私の好きな甲虫の一つだが、無地のものは見分けるのがどうも難しいという話をしたときのことである。
先生は「実は自分もコメツキモドキが好きで、一時本気でやろうと思っていたときがあってね、のちに神谷(佐々治寛之博士)君に見つかってみんな持って行かれてねえ。」と笑っておられた。

そして「中根(猛彦博士)さんのまとめ(新昆虫1958)の図は大体Villiers(1945)のモノグラフからの引用だから役に立つと思います。貸してあげますよ。」とおっしゃった。
次の日には300ページほどもある原著を持ってきて頂いた。また、ニホンホホビロコメツキダマシの話題になったとき、「あれは自然のメダケより人が切ったものによく集まる様だ」とおっしゃった。

高知にお住まいの頃、父が畑を作っていて軒下に畑で使うメダケの大きな束を置いていた。ところが、これにこの種が大発生していて夢中で竹を割って次々に採集した。大方全部を割り終えたところで父に見つかってこっぴどくしかられたよ。

ある時、「北九州の昆虫」1号(創刊号は北九州虫の会々誌 1954)の話になった。

(図4)

私が同好会誌の表紙にしては重すぎるとお話しした。
先生は笑いをかみころしながらお話しを続けられた。
森本先生が学生の頃。この創刊号の編集者は木元(新作博士)さんで、座右に置いていた「台湾博物学会会報」の表紙をそのまま置き換えたという事だった。

編集が終わり「発行者の松田(勝毅)さんに見せるからついてきて」と頼まれ一緒に出かけた。
松田さんが表紙を見るなり「これが同好会誌の表紙か」という事でひどく怒られ、「二人して走って逃げ出してきたよ」という事だった。

ちなみにこの創刊号には森本桂「九州産アシナガゾウの手引」、木元新作「北九州のハムシ」、矢野宗幹「シンジュガ」などが掲載されている。幸いこの表紙はそのまま使われたが、2号からは英字が省かれおとなしい表紙となっている。

先生は大著「The Insects of Japan」4の発行後、すぐにキクイゾウのまとめに取りかかられた。
先生から頂いた「日本産キクイゾウムシ亜科仮目録」(2014、未公表)には148種があげられ、既知種が45種、未記載の属や種が103種となっている。ほとんど完成間近だったキクイゾウのまとめができなかったことは、先生が最も残念に思われていることと思う。

先生の部屋にお伺いする度に「ここまで進んだよ」と記載や交尾器の図などを見せて頂いた。
また、ムツヒゲキクイゾウだったと思うが、あるとき先生が私の部屋においでになって「城戸さんからもらっていたものも含め解剖したら全部雌だったけど、手元に残ってますかねえ。」ということだった。

2ミリ程のごく小さい種である。幸い私の手元には3頭残っていたので次の日にお持ちした。それから2、3日して、「最後に解剖した1頭が雄で、交尾器もうまく取り出せましたよ」とにこにこしておっしゃったのが忘れられない。

そして2016年には先生と共著で「日本新記録オオダイコンサルゾウムシ(新称)の分布と生態」を公表できたことは何よりの思い出となった。先生は書かれた下書きを何度もお持ちになり、「特に分布や生態の項はどんどん書き加えてください。こういうことは遠慮なくやってくださいよ。地図の方は城戸さんの方が調べた産地が多いので作成を。」とおっしゃった。地図上の福岡市海の中道付近と志賀島は先生ご自身で調べられた地である。

森本先生、長い間私のような一介のアマチュアにご厚情をいただき、ほんとうに有り難うございました。心からご冥福をお祈り致します。