昭和初期に描かれた蝶画

もう数年以上前になるが、カミさんの従兄から、手描きの蝶画コピーを見せられた。
それはナガサキアゲハとクロアゲハの絵で、ほぼ実物大に描かれていた。

(上:ナガサキアゲハ、下:クロアゲハ)

(訂正
当初、雌雄のナガサキアケバと勘違いして書いていたが、掲載された写真を見られた久留米昆虫研究会事務局の國分さんより、「ナガサキアゲハ♂とした有尾のアゲハは、クロアゲハ」とのご教示をいただいたので、訂正した。指摘戴いた國分さんにお礼申し上げる。)

肉筆の精密な水彩画で、蝶の絵としても、よほどうまい絵のように思われた。
昭和13年7月6日の日付が有り、この日に描かれたものと思われる。

驚くべき事に、これを描いたのは、カミさんの父親の、20歳近く年上の兄さん(カミさんの伯父さんに当たる)で、戦前(昭和20年以前)のことらしい。

ちょうど手元に、雑誌の特別付録で付いていた円山応挙 写生帖 蝶の部のアゲハチョウの絵(平凡社, 1976. 季刊アニマ4 蝶)がある。

(応挙筆のアゲハチョウ雄、上:背面、下:腹面)

ひいき目ではあるが、このナガサキアゲハなどの絵もあまり遜色ないように思える。

蝶の絵は他にもいくつもあったという話で、さっそく、それらが載っている画帳を見せてもらうことにした。
画帳は3冊残っており、次の写真の通りである。

伯父さんの画帳
                                                                                   伯父さんの画帳

蝶の絵だけを描いた「昆虫鈔」が1冊と、草花を描いた「花譜」が、春夏の部と、秋冬の部の2冊である。後者の一部には、草花と共に、蝶や蜻蛉、蜂などが添えられている絵もある。

このうち、昆虫鈔は、奥付に昭和17年起稿 川崎敏郎とある。

表紙

                                                                                            表紙

奥付

                                                                                          奥付

最初のページが上記のナガサキアゲハとクロアゲハで、
次はツマベニチョウと、マダラシロチョウである。

(上:ツマベニチョウ、下:マダラシロチョウ)

ツマベニチョウの説明には、「ツマベニテフ(オホツマキテフ) (雄) フンテフ科 後翅表面ハ枯葉色ヲ呈ス 幼虫ハふうてふぼくノ葉ヲ食ス 七月ヨリ八月ニ山地ニ産ス」とある。

マダラシロチョウの説明は、「マダラシロテフ(雄)(冬型) フンテフ科 夏型ハ稍々大型 翅端ハ突出ス 牛馬ノ糞尿に集ル」とある。

この後のチョウにも、それぞれ説明が付いていて、この画帳は、生徒に蝶図鑑として見せるために制作されたものと思われる。

次のページは、ワタナベアゲハとシロオビアゲハ。

(上:ワタナベアゲハ、下:シロオビアゲハ)

さらに、
クロタイマイ(アオスジアゲハ)、コノハチョウ、タイワンミカドアゲハ(ミカドアゲハ台湾亜種)。

(上:クロタイマイ、中:コノハチョウ表面、下右:コノハチョウ裏面、下左:タイワンミカドアゲハ)

それから、
ホソチョウ、ウスキチョウ、ウスムラサキシロチョウ。

(上:ホソチョウ、中:ウスキチョウ、下:ウスムラサキシロチョウ)

さらに、
コノマチョウ(ウスイロコノマチョウ)、メスシロキチョウ、タテハモドキ。

(上:コノマチョウ、中:メスシロキチョウ、下:タテハモドキ)

最後に、
ルリモンアゲハとキチョウ。

(上:ルリモンアゲハ、下:キチョウ)

(訂正
こちらも、上記、國分さんのご指摘によると、キチョウではなく、タイワンキチョウまたはウスイロキチョウと思われるということである。)

ルリモンアゲハの説明では、「裏面ハ淡黒色」とあり、翅形の概略が描かれ、「七個紫紅色眼状紋アリ」と書かれている。

実物を見ながら描かれたのは確実だが、最初のナガサキアゲハとクロアゲハを除いては全て、当時は日本国内であった台湾産で、胴体が異質なので、台湾土産のチョウの額か何かを見ながら描かれた絵のようである。当時の和名がほぼ正確に添えられているので、図鑑類でちゃんと確認されていたのかもしれない。

これらの台湾産を描かれたのが昭和17年であろう。

この伯父さんは、カミさんの父とは相当年が離れており、カミさんが生まれる前に亡くなっているので、どんな人なのか経歴は良く解らない。
何でも、漏れ聞いたところでは成績優秀で、長崎市内で学校の先生をされていたようである。絵も相当上手だったと言うことだが、この3冊の画帳以外は見たことがない。

「花譜」の、春夏の部と、秋冬の部はページ数も多く、描かれている草花の数は合わせて100近くもあろうか。このことから考えると、花譜、つまり植物図鑑作成が当初のもくろみであり、奥付に昭和8年起稿、昭和18年集成とあるので、昆虫鈔は昭和17年になって追加されたのであろう。

画帳を見ていくと、描かれた場所として、「昭和12年有家町(現・長崎県南島原市)ニテ」という記述が多く、「有家第二小学校ニテ」というのもある。
他にも、「昭和11年5月 森山(現・同県雲仙市)鳥島校ニテ」というのも有るので、小学校の先生で、島原半島各地の小学校に勤務されていたのかもしれない。

花譜春夏の部の表紙

                                                                                    花譜春夏の部の表紙

奥付

                                                                                           奥付

春夏の部の最初には、植物図鑑等に見られる葉形、花形、花序の説明のための線画も見られるので、明らかに図鑑作りを目指して描かれたものと思われる。

葉形の説明線画

                                                                                    葉形の説明線画

(花形、花序の説明線画)

草花の絵は、蝶にも増して、華麗、繊細、可憐に描かれているが、今回は蝶などの虫の絵が付属するものに限って紹介したい。機会があれば草花の絵も見て頂きたい気もする。

まず、モンキアゲハとキランソウ。

(上:モンキアゲハ、下:キランソウ)

モンキアゲハには八五十三の字が添えられているので、昭和8年5月13日に捕らえて描かれたものであろう。
キランソウには「ぢごくのかまのふた」という俗称と学名、特徴なども添えられ、完全に図鑑の体裁を備えている。

次いで、8年4月26日付けのアゲハチョウとゲンゲ(レンゲソウ)。

(上:アゲハチョウ、下:ゲンゲ)

当時の子供達なら誰でも知っていると思われたのか、アゲハ、ゲンゲともに説明は付けられていない。どちらも、実物を正確に繊細に描写してある。

次は、8年4月29日付けのシオカラトンボとフロックス。

(上:シオカラトンボ、下:フロックス)

羽の基部が透明なので、オオシオカラトンボではなく、シオカラトンボ。透明な羽にある繊細な翅脈や、ツヤのある複眼、成熟して粉を噴いた腹部まで、良く書き込んである。

草花の種は良く解らないが、フロックスとの添え書きがある。
フロックス属はシバザクラやクサキョウチクトウの仲間らしい。北米原産の園芸植物のようである。

次もシオカラトンボ。余り成熟していない感じ。植物は良く解らない。

(上:シオカラトンボ、下:セキショウ)

(追補
シオカラトンボの下に書かれている植物の名前は不明であったが、植物屋の小原さんからセキショウである由、ご教示いただいたので、追加した。図鑑で調べてみるとセキショウはサトイモ科ショウブ属で湿地などの流れのふちに群生する植物で、シオカラトンボとの組み合わせは、さもありなん、と納得できる。ご教示いただいた小原さんに感謝したい。)

次は、ヤマザクラのサクランボとイナゴの一種(イナゴの種の区別はかなり難しい)、右の描きかけの線画はキリギリスかヤブキリか、それとも別の種か?

(上:サクランボ、下:イナゴの一種など)

最後に、秋冬の部より、8年9月25日付けのオオスズメバチとマルバルコウ。

(上:オオスズメバチ、下:マルバルコウ)

秋を迎える前の活発に餌取りに飛び回っているオオスズメバチと、帰化植物で、荒れ地や河原などにはびこっているマルバルコウが描かれている。

いずれも、ほとんど実物大で、かなり正確に特徴を描写してあるので、少し知識のある者なら種まで同定できそうである。

日付を見ていくと、昭和8年4月に一念発起して、極彩色の植物図鑑を作るべく、連日、植物を写生していき、その後も、中断を挟んで写生し続けられたようである。
昭和18年になり、戦争が激しくなる中で追加をあきらめて、蝶画の昆虫鈔を追加し、花譜2冊と共に3冊を編纂された、ということのように思える。

これらが描かれたのは、今から70〜80年ほど前の、昭和8年〜18年(1933-1943)であることを考えると、素晴らしいできばえであり、世に出なかったのが、まことに惜しい。
この頃にはまだ、彩色された図鑑類も無かったと思われるし、これらの絵を見せられた子供達は、食い入るように見つめたであろうと思われる。

身内の先祖に、虫と草花に興味を持ち、図鑑作りを目指して、素晴らしい絵を描いた人がいたということを知っただけでも、大変喜ばしいことであった。

これらの画集の存在を教えて頂いた従兄の正博さんに心から感謝したい。