今坂が森本先生の追悼文を準備していた先日、ヒメゾウムシ科の権威 吉原一美博士からヒメゾウムシの分布のことで問い合わせがあった。
吾が師 森本 桂先生に教えていただいたこと
http://www.coleoptera.jp/modules/xhnewbb/viewtopic.php?topic_id=211
私が「先生の追悼文を用意しているので、よかったら貴兄も書かれませんか?」とお誘いしたところ、是非、書きたいとのご返事をいただいた。その原稿をいただいたので、以下に掲載したい。
ヒメゾウムシの研究を支えて下さった森本先生
吉原一美
九州大学名誉教授 森本桂先生のご逝去を知って最初に思ったことは、キクイゾウムシ亜科のまとめが未完に終わってさぞご無念であったろうという事である。それを含め、先生のやり残された仕事は、教えを受けた者たちで手分けして今後やって行かねばならないと思う。
私は愛媛大学の修士課程、山口大学(鳥取大学連大)の博士課程に在籍して日本産ヒメゾウムシ亜科の分類を研究していた頃、森本先生に時々九大を訪問して個人的なご指導を受けた。
(ゾウムシ・ゼミで先生から配布された資料の一部。先生は毎回、数枚に及ぶ資料を準備されていた)
当時、九大には小島弘昭さん、中村剛之さん等ゾウムシの分類をやる院生が増えてきたので、毎週土曜日に先生の部屋で「ゾウムシ・ゼミ」をやることになり、私も出席を許されて週1回山口から通った。今思えばずいぶん贅沢な研究環境だったが、当時の私には猫に小判だったかも知れない。
(ゾウムシ・ゼミで吉原が発表したプリントの一部。一応全形図も自分で描いていた。鉛筆書きは先生に教わったことをメモしたと思われ<赤字の矢印の部分>「どれ(=どの条溝)が退化したか 生の材料 気管があるのが奇数間室 グリセリン管に入れる アルコールが入るとダメ」と読める。)
1994年に日本と近隣地域のLimnobaris属の再検討を先生と共著で出したのが私の処女論文となった。このとき原稿とともに提出した♂交尾器の図があまりにもひどいというので先生に厳しく叱責された。
先生はそれらの図をご自身で始めから描き直され、出来上がった論文にはそちらの方が出ている。その他にもお叱りをうけたことは何度もあったが、原因はすべて私の努力が足りなかったためで、まさに自業自得である。
1996年に鳥取大に論文を提出、学位を取得して岡山に帰ったが、論文は意に満たぬもので手直しが必要だった。しかし職を得られず経済的に行き詰まり、母の介護の重圧もあって研究が続けられなくなった。
小島さんが後を引き継いで下さることになり、2003年に手持ちの標本を全部お渡しした。しかしすでに東京農大で教職にあった小島さんはご自分の研究と学務で多忙を極め、ヒメゾウの研究までは手が回らず、仕事は遅々として進まなかった。結局2009年に共著で3新種を記載しただけであった。
2014年、突然森本先生から手紙が来て、お前の学位論文を『日本の昆虫』シリーズで出版する、3人で手分けして改訂するという。丁寧だが、有無を言わさずといった文面であった。思うに、痺れを切らされたのだったろう。
森本先生がその後の文献を加えて本文とsynonymic listを直して下さり、小島先生は最新の機材で全種の全形写真を新たに撮影して下さり、私が和文摘要の作成と全体の見直しを行った。こうして、実質は3人の共著である『日本の昆虫 Vol.6 ヒメゾウムシ亜科』がようやく完成し、2016年3月に出版された。学位取得後20年が経過していた。
吉原一美(2016)日本の昆虫6ゾウムシ科 ヒメゾウムシ亜科. 171pp. 櫂歌書房
先生と最後にお会いしたのは2015年9月に九大で開催された日本昆虫学会第75回大会だったと記憶している。前記した拙著がもう間もなく出来上がる頃で、私は同書にはいろいろ不十分の点があって(森本・小島両先生により大幅に改善されたものの)なお上出来とは言いがたいことを、いくぶん申し訳ない気持ちを込めて申し上げた。
すると先生は「始めから百点満点のものを作る必要はない。大学でも六十点取れば合格だ」と機嫌よくおっしゃった。先生の優しさが身に染みて感じられた。そんなことがいま思い出される。
私のような不肖の弟子でも辛抱強く指導して下さった学恩には感謝してもし切れないものがあると同時に、あまりご期待に沿えなかったことを本当に申し訳なく思う次第である。心からご冥福をお祈り申し上げます。
(今坂正一氏には、たまたま、お問い合わせのメールを出したところ、その返信に添えて森本先生のご逝去をお知らせいただきました。そのご縁で氏のホームページ内に森本先生への追悼文を書かせていただきました。)