分化線による九州の生物地理−西九州と東九州− その1

2008年12月7日、神奈川県立生命の星・地球博物館1階 講義室において、神奈川昆虫談話会12月例会の招待講演として、表題のようなお話をしてきました。以下にその内容を多少アレンジしてお知らせします。

少し長くなるので、数回に分けて紹介しますが、第1回目は自己紹介と、このようなことを考えるようになった背景についてお知らせします。

講演のメインテーマである分化線と生物地理そのものについて、手っ取り早くお知りになりたい方は、1〜2回目を飛ばして、いきなり、3回目からご覧下さい。

<はじめに>
九州の生物地理については、所謂、内帯、外帯という、九州を南北に分けて分布を論じる考え方が、植物を中心に見られます。外帯に属する南部は、四国・紀伊半島と共に、古い時代の依存的な生物が見られ、ソ速紀要素と呼ばれています。九州中央部には、地史的には比較的最近出現したと思われる巨大な阿蘇カルデラが存在することも、そうした考えを助長しています。

私は、西九州を中心に甲虫の分布を調べてきましたが、西九州の片隅から九州全体を見渡すと、どうも、そうではないらしい、との感触を得ていますので、今回は、そのことをお話ししたいと思います。

<考え方の背景>
私が九州の生物地理に関して、分化線などという発想に到るには、私の生い立ちや、住んでいる場所、ベースグラウンドの地理的位置などが影響していると思われるので、まずは、そこからお話しします。

<生まれ>
私は九州の西端、長崎県南部の島原半島東端にある島原市の生まれです。
(上:島原半島,下:九州)

かつては、島原-天草のキリシタンの乱で多少知られていましたが、現在では、むしろ1990年以降の普賢岳噴火災害により、全国的に知られるようになったと思います。
(上:自宅前の原っぱ,下:平成新山)

実家は染物屋から移行した呉服屋で、自宅前の原っぱが、最初の虫たちとの出会いの場でした。
通常の子供達同様、バッタやセミ取り、アリの観察、コオロギの飼育などをやっていましたが、大学にはいるまで、標本作製や収集はまったく手を染めていません。

<京都遊学>
中学2年生の春、京都の下鴨中学校に転校、次いで、洛北高校に進学しました。
自身も京都の学校を出ている父親にとって、呉服・染色・イコール・京都という発想があったようです。
呉服販売や仕入れには、京都弁に慣れておく必要もあると考えていたようです。
(上:鴨川,下:京都府立洛北高校三年)

ともあれ、九州の片隅から出てきた京都は、中学2年生にとって外国も同様で、方言・習慣・暮らしぶりなど、一時、カルチャーショックに陥りました。田舎出のくりくり坊主頭は、制服すら着なくても良い学園の自由な雰囲気に、目を見張ったものです。

同級生の中には、高級住宅地に住む京都大学・同志社大学などの大学教授の子弟、陶芸家や画家など文化人の子弟なども多く、あまり、受験勉強には熱心ではありませんでしたが、多方面に渡る好奇心や知識、文化活動などに目を奪われました。
登山やハイキングも盛んで、街の北方にそびえる北山には良く出かけました。
(上:ハイキング,下:京都北山杉峠)

<トゲムネミヤマカミキリを見つけた>
高校での浮かれ加減の生活は、直接、大学受験に響き、学園紛争の直後で東京大学の受験が行われなかった年に卒業、ことごとく受験は失敗してしまいました。

そして、浪人、1年目はまともに予備校通いをし、正直、この予備校で、やっと、受験科目の基礎学力を付けたと言っても、言い過ぎではないと思います。
しかし、親の期待や自身の過信もあって、あえなく2浪。
もう後が無く、しかし、同じ予備校に通う気力もなく、夏休みは実家に帰省して、離れに篭もって、受験勉強をしておりました。

深夜、頭休めに、外に夕涼みに出て、ふと何気なく湖畔の水銀灯に目をやると、多くの虫たちが飛来していています。カブトムシやクワガタや大きなガ類やバッタなど。
あちこち見渡していると傍らのサクラの樹幹にキラキラとビロード状に輝く上翅を持った大きなカミキリが静止しています。

触角は体長の3倍ほどあつて、すばらしくりっぱなカミキリです。
「なんだろう、この虫は・・・」
と、思ったのが、甲虫との出会いです。
(上:トゲムネミヤマカミキリを最初に見つけた白土湖畔,下:トゲムネミヤマカミキリ)

京都へ戻って、本屋さんを捜し、当時出版されたばかりの「原色日本昆虫生態図鑑カミキリ編」を見つけて、この虫の正体が解りました。
「トゲムネミヤマカミキリ、国内では島原半島のみに生息する。」
(上:標本♂♀,下:トゲムネミヤマカミキリ)

即座にこの本を買い求め、受験勉強の合間に、毎日、むさぼり読んでいました。
受験に合格したら、絶対、これらの虫を追いかけて、日本中を走り回ってやる!!
こんな籠の鳥状態は、絶対、今年中で抜け出してやる!

<日本各地カミキリ採集>
意気込みの甲斐もあって、ともかくも、立命館大学理工学部に入学しました。
入学直後から、化学科ですから、かなり実験も多かったのですが、とにかく、やりくりして可能な限り山に行きました。
しかし、まったくの素人。

子供が夏休みの宿題に使う、デパートで売っている昆虫採集セットを持って、3段つなぎのネットを一つ抱えただけ。
採集場所も、時期も解らず、やみくもに京都北山の山麓を歩き回りました。
松ヶ崎、宝ヶ池、八瀬、岩倉、鞍馬と次第に山深くに入っていって、はては花瀬峠、杉峠、広河原まで、バスに揺られて行ってみました。

ある日、採集地で本物の虫屋と出会い、ビーティング・ネツトや殺虫ビン、酢酸エチルと、採集方法を教わることになります。
それから、次々に、いもづる式に友達の虫屋を紹介して貰って、次第に、採集場所や採集時期、正当な採集道具、標本製作法などを教わっていきます。
結局、この年は、京都北山と伯耆大山を歩いただけでした。

「昆虫と自然」に、トゲムネミヤマカミキリの短報を出したところ、ベテランカミキリ屋から即座に手紙が来て、「是非、交換したい」とのこと。
後日、わざわざ下宿先まで出かけてきて、お礼にと、40種を超えるカミキリを置いて行かれました。
その沢山のカミキリ標本を見て、改めて、このカミキリの価値を思い知ったわけです。

2年目には奈良の春日山通いを覚え、北山と大山と、そして、関東の大菩薩峠に足を伸ばしました。

夏は交換学生により、アメリカのテキサス中央にあるミッドランドという町で、普通のお宅にホームステイ40日間、そのうちの一週間はシカゴ郊外のカーペンタース村の親戚の家へ。
帰宅して、報告会でアメリカでやってきたことを聞かれて、「ひたすら家の周りで昆虫採集をしていた。」と答えて、あきれられましたが、後日の報告会に標本を持参して、「形に残る成果を出してきた。」と、見直され褒められてしまいました。

3年目ホームグラウンドとなった北山、春日山に加えて、和歌山、岡山、岐阜高山、大菩薩、奥日光、北海道と、東奔西走。
名だたるカミキリ屋とも知り合いになり、本土のカミキリはたいてい、解ったようなつもりになってしまいました。
(上:北海道,下:対馬竜良山)

4年目、沖縄の復帰を待ち望んでいたカミキリ屋は競って琉球へ出かけました。
私も、春から沖縄の首里を皮切りに、石垣、与那国、西表、沖縄、奄美大島と周り、夏は夏で、奄美、屋久島、対馬と出かけました。
(上:沖縄国頭村の海岸,下:沖縄奥)

その合間に、北山、春日山、大山に出かけ、自室には春に琉球で採集してきた枯れ材から、連日カミキリが羽化してごそごそ這い出て来るという有様で、まったく、あの状態でよく4年で卒業できたものです。
遠征の資金稼ぎに、合間ではアルバイトもしながらでしたから。
(上:石垣島,下:下甑島)

<台湾行き>
在学中から、卒業したら、京都の呉服問屋に丁稚奉公に行くことが決まっていました。
それで就職活動も、いい成績を取ることも必要有りませんでした。
ただ、4年で卒業さえ出来れば良かったわけで、最低必要限の単位を取って、虫採りをしていたわけです。

4月から予定通り、現金問屋に就職しました。
従来からの取引先ですから、商品知識など基礎的なことは教えてくれますが、取引に関わる仕入れ・販売などにはまったくタッチさせてもらえません。もっぱら、お客さんの雑用の対応と、商品発送などが主な業務です。

もともとの約束は、3年間の予定でしたが、夏頃には翌春には辞めて欲しいとの話がありました。内情を余り知られたくなかったものと思われます。
退社したら、自宅に戻って家業を継ぐことになっていましたが、家の方は3年後のつもりだし、そのタイムラグは好都合で、琉球の次を睨んで、台湾に行くことにしました。

3月末に退社し、まず、沖縄に10日ほど、それから、台北に飛びました。台北駅で台中行きの列車のキツプを買おうとして言葉が通じず、どうしても予約の仕方が理解できず、長い時間を潰したあげく、高速バスに乗り換えて台中へ向かいました。
同じ顔をしている人たちが、別の言葉を喋る不思議?
外国にいるのだと言うことを実感しながら、深夜になって、ようやく甫里に到着しました。

虫のメッカの甫里を中心に、南山渓・霧社・蘆山・松崗・日月タンと連日バスで採集地に向かい、「台湾はなんと虫の多いところか。」と思いました。
(上:甫里,下:松崗)

南山渓の採集人のチョウ・トラップには、色とりどりのチョウが林立していて、多いときは、一度に1000頭以上が集まっていたでしょうか?
その中から、彼等は貴重で高く売れる個体だけを選んで採っていきます。
(上:霧社,下:南山渓の蝶採集人)

毎日毎日、それを繰り返していても、いっこうに減る様子はありません。
甫里の標本商の机には連日、大量の標本が積み上げられていました。

私自身、数年の採集で、カミキリ採集には限界を感じかけていました。
カミキリ屋仲間でも、思い思いに他の虫に手を出す人が出てきて、その中で、私はハムシをやると手を挙げました。
台湾は初めてカミキリ以外のものをメインに採集した場所でした。毎日毎日、ひたすら生葉のビーティングをしながら山を歩きました。

左の写真は雨の南山渓でビーティングネット片手に叩きながら歩いている1コマです。
(上:雨の南山渓,下:日月タン)

関西のカミキリグループ数人でその後書いた台湾採集案内特集号、鞘翅目学会和文会誌「さやばね」2号 の表紙のカットは、この写真をアレンジしたものです。

その後、南部の奮起湖、阿里山、墾丁公園を廻って、また甫里に戻り、1ヶ月経ったので、ビザの延長のために、台北に戻りました。
公園を歩いているときに、呼び止められて時間を聞かれたようなのですが、言葉が解らず、怪訝な顔をしていると、ベトナム(越南)人かと聞かれている様子。
ちょうど、その頃、米軍がベトナム戦争に敗れて、南ベトナムは陥落し、難民が四方に逃げていた頃だったので、栄養状態が余り良くなく、汚い格好をしているのを見て、そう思われたのでしょう。

ビザの許可を待つ間にも、台北郊外の坪林、亀山を訪れてみました。
その後、甫里に戻ってから、蓮華池、梅峰と採集し、今度は東岸に回って、瑞穂の紅葉温泉の伐採地や知本温泉を訪ね、T君に誘われて紅頭嶼(蘭嶼)まで出かけました。

紅頭嶼では、コウトウキシタアゲハにバカにされながら2時間ほど粘ってゲットしたり、ハチの巣を叩いて全身11箇所も刺され、海に浸かってハレを沈めたり、ノミだらけの宿舎に泊まって、カエルの汁を食べさせられたりと、連続でかなりハードな経験をしましたが、それも懐かしい思い出です。
台湾ははずれに行くほど日本語が通じるので、その点では安心でした。

それから、台東に戻り、梨山・台中を経て甫里へ。この後一週間ほど甫里周辺で採集して、50日に及ぶ台湾遠征を終えました。

さらに、沖縄に戻り、石垣、宮古で採集して京都に帰ったのが、6月半ば過ぎ、一週間ほど休んで、今度は逆方向の利尻島〜北海道へ出かけました。
台湾や沖縄の暑さから一転して、北海道は6月末と言うのに13℃と、まるで本土の冬、利尻岳の中腹では震えながら、延々100日に及ぶ虫採り旅行を、いったい、何のために続けているのか・・・と思いながら、登っていました。

そして、この年の12月、標本を含む家財道具を、レンタルのワンボックスカーに全て積み込んで、実家に帰り着きました。