荒巻さんによる虫屋誕生記 2

つづいて、虫屋誕生記のその5からその7までです。

今回以降の、本文に関連する写真の選定は、築島基樹さんにお願いしました。
築島さんのご苦労に対し感謝します。

荒巻さんは、かなり前から、自身の文献・標本・写真等の管理を築島さんに託されていました。

築島さんは、虫屋誕生記(その6)で荒巻さん自身が記したように、荒巻さんの昆虫教室参加者で唯一、現在も現役の虫屋です。また、久留米昆会誌KORASANAの編集者としても尽力されています。
以下本文です。

第10回 虫屋誕生記 (その5)

「久留米虫だより No.178 2003. 3. 17 発行」

[戦後篇] 昭和21年から昭和53年迄

当時の久留米昆虫同好会会報久留米虫だより(No.96, 97, 99, 100)に虫屋誕生記として1985年4月より12月迄書いてはいるが、その後、後続のないまま筆を措いて、すでに18年を経過した。

虫屋再開、今年で1/4世紀25年となった。

昭和20年8月11日久留米市の中心部は米軍の焼夷弾攻撃空襲により灰達に帰し、私も標本他を焼失した。
復員後も師梅野明氏との交遊は続いていたが、親友田中健次君は標本他を疎開していたので専売公社職員の職務のかたわら虫採りに専念していた。

標本に囲まれた田中さん
標本に囲まれた田中さん

終戦の翌年からは現在の様に旅行もままならずテレビ・電話・自家用車等有るはずもなくてもっぱら親友3人で毎日の様に社交ダンスにうつつをぬかしていた。

東京から帰省した昭和20年代後半に、結成された直後の久昆の採集会に梅野、田中両氏にさそわれ、久留米市正源寺山(現競輪場付近)方面の採集会に末弟を同伴して参加、中学生帽をかぶって網を持たせた私との2人の写真一葉がある。他に1回高良山採集会に参加した記憶がある。

(1953年8月、正源寺山にて、左:荒巻さんの末弟、右:荒巻さん)

また熊本県国鉄小国線(現在廃線)麻生釣高原無人駅での一葉の写真の想いでは梅野、田中両氏と3人での採集行。御2人共蝶屋、記憶にはないが草原性の「オオウラギンヒョウモン」等のヒョウモン類採集行だったかとも考えられるが、私は小年期より蝶には無縁で興味なく、亦昆虫採集は中断して再開の思案もなかったのでもっぱら草原に寝ころぶか昼寝ばかりしていた。

梅野氏は私の人生の只一人の師匠で、戦後の学制改革迄当時の昭和女学校の生物教師(現・県立久留米高等学校)で、この学校の機関紙「こむらさき」を主催されたと聞いている。

田中君は久昆発会当時からの会員ではあるが原稿はKORASANAに只一篇のみ発表している。
このころ祖母山に同行し紀行文を2人で書いた記憶があるが、会の事務を預かって以降、どの冊子に原稿を預け発表したのか長らく疑間に思っていた処(田中君は昭和54年死去)、後年、福岡市在住の「山内光」氏が九州大に標本蔵書を寄付された折、会員の川上太朗氏が見付けられ、親切にも全冊コピーされ、頂いた中に「祖母山採集記」として発表されていた。

昭和30年(1955年)からは親しい友人といつも4人で荒磯専門の海釣りを始め、北は壱岐対馬、南は薩摩半島、枕崎、秋日、野間池、久志、大隅半島、佐多岬、内浦方面、奄美大島、西は五島列島各地、東は宮崎県東岸の各地、四国は宿毛方面迄遠征。

(釣屋時代の荒巻さん、左:1967.5.4鹿児島県錦江湾にて)

(同、1977.7.18自宅前で、長崎県崎戸島で釣った魚を並べて)

職業柄の椎間板ヘルニアがひどくなる迄(昭和53年・1978年)、23年余は全く虫とは無縁の人生を送っていた。田中君からの年賀状には、この頃「虫屋より魚屋へ」などと書いた絵入りを貰っている。

梅野氏からの年賀状は、小生の氏名に列記して嬶左衛門の事を御令室様と書いてあるものだから、明治生まれの素封家の直系とは違うものだと妙に感心したものだった。

1965年(昭和40年)8月12日、小生の250ccの単車に、運転の出来ない田中君にさそわれ後部へ乗せ、八女郡星野村へ、矢部川の上流星野川沿いを湖上、そのまた支流熊渡川沿いに熊渡山(標高960m)方面へ採集行、夜間採集で懐中電灯で「ホソカミキリ」「セダカコプヤハズカミキリ」4♂ 2♀ ほかを採集、炭焼小屋前のトタンの上で寝た記憶は思い出深いものだった。

(田中さん採集、熊渡山産セダカコプヤハズカミキリ北九州亜種)

田中君の標本は彼の入院後梅野氏に預け、氏の没後、市の文化財収蔵館に収納されている。
ドイツ箱1ケースのみ自宅に保管されていたのを私が申受け、現在コレクションの一部として有り、この標本を見る度毎に38年前の往時を想い浮かべている。

田中君とは九重町吉部、長者原方面へ幾度かは同行したが採集に協力した記憶はない。当時、交通の便は列車のみで一番列車は日田止り、二番列車で南久留米から豊後中村迄、バスに乗替て高原局前下車徒歩で吉部方面へ、或は長者原下車、寒の地獄付近へ。

現在の様な(ヤマナミ・ハイウェイと変な名が付けられているが「ハイウェイ」ではない)横断道路はなく、特に吉部方面では自然林も多く、今の様に高原野菜も栽培されてなく、所々に掘立小屋の開拓農家が見受けられ、行く度に「ダイヤ焼酎」をおみやげに持参したものだ。

時間を合せ私は近郊の山へ登り、彼は蝶の採集(特にゼフ)、彼に言わせれば久留米弁で「銭高物」等と言っていた。今でもこの吉部方面では「ゼフ」のメッカと聞く。最終列車に間に合うためには約2, 3時間の採集行だった。

1973年(昭和48年)7月31日から8月6日迄、ニューサイエンス社主催の「マレー半島採集旅行」には23名参加。

九州から白水隆博士を団長とし梅野明、矢田脩、森田公造、原泰文、宮崎十部、西村五郎(敬称略)の七名の方が参加され、この蝶採集調査旅行記はその3年後、会誌Vol.15, No.2に発表されているが、その前後談は梅野氏と会う度毎に聞かされた。

マレー半島産蝶類研究の手引き表紙・前記調査の参考資料として作成された冊子
                                           マレー半島産蝶類研究の手引き表紙・前記調査の参考資料として作成された冊子

マレー半島産蝶類研究の手引き・口絵写真

                                                                    マレー半島産蝶類研究の手引き・口絵写真

1979年秋の或る日電話が有り、上津町の自宅まで出向く様とのこと、何事ならんと参上した。ついては18年間事務局を預かって居られた森田公造氏の後の事務一切を自分がやるから協力せよとの話、昆虫とは無縁で暮らした戦後33年、何を今更と固く辞退したのだが、前文でも書いた通り、戦前の梅野昆虫研究所のスタッフは全滅状態、田中君は不治の病で入院中、氏も思いあまって戦前の年少所員の私に自羽の矢を立てたとの事。

この年、ヘルニアが昂じて「プッツリ」23年続けた海釣を止めた直後だった。
昆虫採集も戦後やった事もなく文献もなく戦時中は佐世保海軍工廠勤務、ほとんど、ど素人同然だったが協力程度ならと返事した。

これが小生の第一番の身の破滅、2年後には大酒飲みの梅野氏は病にて入院される。
この年恒例の久昆主催第25回昆虫展が石橋文化センター美術館で催行予定、同館が改装中で時期は良くないが12月10日より3日間、ついては標本集めに協力せよとのことで、北は蛾の河村忠氏(八幡)、西村五郎氏(蝶、福岡市)、末藤清一氏(大牟田市)、蝶と甲虫、有江敬助氏、トンボほか佐田禎之助氏(同)の各地へ廻り、当日出品者21名、点数286ケースで開催した。

(第26回久昆昆虫展集合写真、前列左より、福田治夫妻、森田公造前会長、本田良太、荒巻さん、河村忠、後列左より、村上明、米田豊、河内俊英、不明、佐田禎之助、石丸雅是、岩橋正現会長、村上の各氏・久留米市図書館にて)

翌年には設立された久留米市福祉部児童センター主催の夏休み昆虫観察教室を会員共々協力、以降20年に亘り夏休みの3日間行った。

第2の身の破滅は有江敬助氏にさそわれ運転の出来ない彼と翌年春から毎週の様に各地に出かけて、またぞろ昆虫キチガイの毎日を送ることとなった。

つづく

第10回 虫屋誕生記 (その6)

「久留米虫だより No.179 2003. 10. 16 発行」

[戦後篇] 昭和54年(1979)〜 昭和56年(1981)

1979年早春、大牟田市在住の会員有江敬助氏に前年の展覧会時に約束させられた採集行にさそわれた。目的地は県内八女郡矢部村御側、楓の花に飛来するカミキリと、早春の蝶の採集。これが小生の戦後再開初採集紀行だった。

前年、梅野会長と展覧会出品用の標本箱集めに、大牟田市勝立庄原在住の会員佐田禎之助氏を訪ねた折、途上の榛の樹液に吸蜜に飛来していた蝶を氏に採れと言われたものの、次々と取り逃がしたのを「やはり君は蝶屋ではないな!」と笑われたことがあるが、この時も初めて手に入れた如意棒のスプリング網がしなって仲々思う様に採る事が出来ず、吾乍ら蝶屋には向かぬと合点したが、この後一年程は蝶も少しは採っていた。

この年4月久留米市福祉部児童センターが旧市立江南中学校跡地に設立され、当時の職員橋本嗣史(号・天呑)氏が入院中の梅野氏を訪られ、5月連休時と夏休みの各3日間を昆虫観察会として協力依頼があった。

氏は近々退院も出来ようし何人かの会員にも協力要請するからと気軽く承知されたが、その後センター側が市の全小学校に募集したものだから、何と300名以上の申し込みがあったので、驚いて1年生から6年生迄30名に限定して実行することとした。以降、夏休みだけに限り、幾年かして3年生以上に制限したが、この年より20年出来うる限りの会員の助力を仰ぎ実行した。

高良山採集会には、北林道、大社登山道、南林道と3班に分かれて森林公園(註)迄、当初は1年生からだったので付添いの父兄が多数参加されるので人数が3倍近くふくれ上がり参加会員は指導に大わらわの様子だった。20年間の記録のうち、同地では蛾ではほとんど絶滅したかと思われていたサッマニシキ、筑後地方初記録のタテジマカミキリ、珍品と考えられていたイシガケチョゥとテングチョウが年々多くなってぃた。

(註:森林公園 : 高良山山頂312Mの南斜面に整地され、クルメツツジが多数植栽されている。

この地は少年期のころ、かぶと山迄の採集行のおりかならず通過する一地点だったが、昭和20年代の後半迄、耳納山系只一の大木の原生林だったのを、当時の市助役近見敏之氏が強行して伐採して現状となっているが、当時梅野氏が東町郵便局長時代、高良大社に密接な関係があったので近見氏が相談に来た。

丁度小生も同座していたので2人で猛烈に反対したものだが、大社の財政上の問題とかで強行されてしまった。以降、この場所は吾々の仲間は切株公園と現在でも言っている。

後日、再拡張が市で決定された折、その後結成された「久留米の自然を守る会」が会を挙げて反対し中止になり、予定地は御井小学校5・6年生を動員して雑木の植樹祭を行い、幾10年か過ぎれば往時の森林がもどるものと考えられる。)

20年間の児童センターの協力には(市の財政上問題とかで講師を呼ぶ行事はすべて中止)、延べ600名弱の男女の児童を指導したが、現在迄、当時3年生より参加した会員築島基樹君が活躍中。当時毎回協力は数名程度であったがあらためてお礼を申上げる。

この間、昭和56年(1981)12月、梅野明初代久昆会長は病気入院、再起不能、不帰の客となられ、以降全面的に会の事務一切が私の肩にかかってきたが、昆虫関係の件については、会誌・会報に再々書いた通り全くの素人同然だったが、当時文献を多大に蔵書されていた会員国分謙一氏、会社の支社長で3年程在久されていた現博多昆副会長福田治氏、この御二人の助力がなければ、今日まで事務局を続けてこれなかったと考え、亦再々度御礼申上げる。

この御二方の交遊中、私がチョウの生卵をナマタマゴと読んで笑われたり、ミイデラゴミムシをミイデラハンミョウ、ミヤマカミキリをヤマカミキリと言ったりしては随分と時代が古い人間と思われた。

早春に始まった採集行初夏から梅雨明け、7月中旬には最盛期ともなり、この頃からすっかり相棒となった有江氏と同行することが多くなった。氏には毎週日曜夜勤明けの早朝5時前に大牟田の氏宅迄迎えに行き、運転の出来ない彼を乗せ(免許証は持ってはいるが一回の路上運転歴があるだけの文字通りのペドライバーとの変人)、各地へ採集に行った。

特にカミキリの最盛期に椎矢峠(熊本県矢部村・宮崎県椎葉村〜県境、1420M)方面には2、3回行ったものだが、初めての遠征!は、この内大臣林道は九州では只一つの横断林道で、会誌に故北野龍海氏が採集記を発表されている。

(椎矢峠にて、左:有江さん、右:荒巻さん)

山中一泊。途上谷川の側にて夜間採集を行う。現在の様に天幕発電機など当然なく、長年使いなれたアセチレンガス灯(海釣用)では大量のビロウドカミキリ、ヒゲナガカミキリ、その他が飛来した。この夜半、熊本在住の会員松寄誠之君と会う。途上の崖の中腹には転落した車が2台引掛かったままになっていた。

峠から左へ入ると二方山林道で背梁となって県境、当時は車で林道終点近く迄行けたが、現在では道が荒れて徒歩で行くしかない。峠より数粁宮崎県側に下ると門割林道入口に到達。この林道は車で入れる場所としてはもっとも危険な場所で崖崩れも多く度々入っては見たが、まだ一度も終点迄は行った事がなかった。

(1980年7月)この年程カミキリの多かった年はなく、リョウプ。ノリウツギの花が満開近く絶好の採集日和で、毎年この時期梅雨明けの7月中旬に訪れれば多種多数の甲虫類が採れるものと考えられたが、以降20年余例年花の時期と虫の発生が一致せず、亦、峠付近のみは雨かガスがかかっており、その後やや良と思われたのは只一回のみであった。

この頃から2、3年の間に九州各地の同好会に入会。佐賀、長崎、大分、熊本、筑紫等の各昆虫同好会と鞘翅学会に入会し交遊を拡げ、北は北海道から南は沖縄県石垣島迄友人が居り、各地の採集行にはその都度便宜を計って頂いている。

(1979.6.3 日本鱗翅学会九州支部会、中列、左から3人目が荒巻さん、二人置いて、前々会長の行徳さん、一人置いて熊本昆の大塚さん、次いで、前会長の森田さん)

(1980.11.16 皿倉山にて、前年に立てられた矢野宗幹氏を記念するヤノトラカミキリの昆虫碑と荒巻さん)

(1980.12.13 大分昆忘年会・黒岳荘にて、前列左より、荒巻さん、西村さん、大塚さん、中島さん、後列左より、一人置いて、現久留米昆事務局・国分さん、一人置いて、岩尾さん、佐々木さん、羽田さん、岩本さん、一人置いて、宮田さん)

当久昆入会当時会員30数名(会費3年以上未納者を除く)、明治生まれの梅野明氏は別格とし、大正生まれ最年長・古賀猷三、次に二代日会長・行徳直巳、自水隆、西村五郎、持松文彦、森田公造(現三代日会長)、河村忠等の各氏(敬称略)で、小生も1925年大正生まれで入会早々に若い会員からすぐに古老あつかいされた。

(1981.10.18 久留米昆総会、前列右より、古賀猷三さん?、荒巻さん、村上さん、森田さん)

現在会員数は105名である。交遊関係は年賀状交換で九州だけで300余、趣味に生きてつくづく人生の悦楽を味わっている。

(つづく)

第10回 虫屋誕生記 (その7)

「久留米虫だより No.181 2003. 12. 13 発行」

[回想記] 少年期から昭和25年

前回迄再々書いた様に小生1925年(大正14年)1月生れで、この年と前年4月1日生れ以降が同期生で、日本の20世紀の中で不可思議な運命と言ほうか、その年々の節目に出会って今日迄過ごして来た。

翌大正15年12月26日より年号が昭和となり、元年は6日間のみ、吾々は昭和1才児(満年齢)となる。指折り数えれば私達は明治27、8年日露戦争後20年目の終戦っ子だったのである。当時各家庭には写真機など全くもたぬ家庭が多く、父の友人から撮って貰った当時、日吉尋常小学校一年生入学当日(昭和6年4月1日)のがただ1枚あるのみ。

荒巻さん7才

                                                                                       荒巻さん7才

終戦前後の方々には考えられぬ事でしょうが、教科書は国語(読方)算数(算術)その他すべて真黒ヶ。翌大正15年生まれから「カラー」となっている。吾々の先輩、兄ちゃん達のドン尻をしめくくった訳である。1年生の巻の一国語は「カタカナJで「ハナ、ハト、マメ、マス」から始まって、登校時はランドセルはあったが腰には石板をぶらドげていた。

当時旧久留米市の人口は約8万余、小学校は全市で8校、市の中心部日吉校の全生徒は各学年60余名で1600名以上を数えた。
入学後小学生当時は満洲事変に始まり日支事変迄、軍国調となり教科書で習う歌や唱歌(音楽)は「水師営の会見・ “旅順開城約成りて”」「陸軍軍神橘中佐の“遼陽城頭夜は更けて”」「海軍軍神廣瀬中佐の“轟く砲音飛び来る弾丸”」「上海事変肉弾3勇士の“廊行鎮の敵の陣”」等だった。

黒一色の教科書にはウレシクもなんともない思い出があるが、昭和60年に亡くなぅた母からはその後2才違いの次弟の「サイタサイタ、サクラガサイタ」のパッとカラーになった読本を見て、吾々時代は何とも面白くなかっただろうと言われたものだ。

ついで乍ら次弟は昨年物故したが、小生の信念として決して他人には喪中ハガキは出した事はない。毎年15〜20通程度喪中ハガキを頂くが、見も知らぬ他の人に物故した人の名を書いてハガキをもらう方は年末に幽霊を見た様で良い感じがしないものである。これはあく迄も私の考えであるので他に強制するものではないので悪しからず。

今一つの節目は昭和19年夏の徴兵検査、1年後、輩も繰り上げ検査となったが、この時うらんだり、うらめしく思った事など一度もなかった。これも亦当時の軍国少年の気分として面白い運命と星の巡り合わせと合点していたものだ。或は当時徴兵されるのは身体不具でもない限りあたりまえの事で、戦地へ向かえばかならず戦死するものと覚悟していたものだ。

洗脳と言う言葉は無かったがその様に少年期より自然にそう考えさせられていた。

小学校4年生頃より近くの梅野昆虫研究所に出入した当時、夏ともなればトンボやセミ採りに明け暮れ、想えば男の子と言うものは残酷なもので、セミやトンボの翅を半分にちぎっては面白半分に翔ばしたり、いたる処の側溝に生息していた蛙(久留米弁でビキタン)を釣り上げては、麦わらで膨らましては空中に放り撤げパンクさせたりして遊び、幼年期にシオカラトンボを多数採集して頭をもいで机の上に並ばせて居たのを父母に見つかり、此の時程は気色ばんだ両親からコッピドクおこられ、地震、雷、火事、親父の諺を今でも思い出す。

今でも想う事だがこの様な少年期を過した日々で物事の加減とものの哀れと言うものを覚えるのであろう。

昨年テレビでの取材で、うっかりと言おうか、つい本音が出て、虫のミイラの箱詰めなどと言ってしまって皆んなのヒンシュクを買ってしまったのではないかと考えている。
福沢論吉は「一身をして二生を経る」と言ったそうだが、私等の年代は五生も六生も経過した様な気がしてならない。

小学校では五年生の2学期から卒業迄、進学組とは別個に同じ教室で隔離され毎日毎日自習させられた。当時日吉校は市随一の旧制中学進学校で、成績の良否にかかわらず貧乏な家庭は上級校には進学出来なかった。後年50年振りで私等が主催した高小時代の同窓会で全市8校の友人に聞いた処、この様な学校は日吉校だけだった。この様な差別は当時でも稀な事だと考えられるが非進学組には進学組に異常な反感が有って卒業後只一回の小学校同窓会を催した事がない。

高等小学校から青年学校、海軍工廠時代は夜間中学に通ったが、月2回の休日以外は毎日九時十時迄の残業と週一回の未定徹夜残業をまぬかれるため入校したようなもので、勉強の方は全くやったおぼえがない。只吾々の時代迄が詰襟の学生服に学生帽、海軍の街だけに巻脚絆ではなくコハゼで止めた白い脚絆だった。捨てるにしのばず4分隊の1と書いたものを戦後持帰り、その後それを参考に虫採りを再開した折本職に作成して貰って着用、ジーパンを1991年に買う迄使っていたが、石垣島採集行の時アメリカセンダン車の実が大量にズボンにくっつくのが防げたのは助かったものだ。1年後輩から戦闘帽にナッパ服となった。

(1942.7.29 海軍工廠時代の荒巻さん)

戦前昭和20年迄は江戸時代の旧藩制度が残り、皇族、華族(公候伯子男爵)、士族、平民と身分があり、明治2年士族は全人口3000万の内4万8千名家長のみと法律が定められたが、明治4年改正。足軽、槍持、馬の口輪取り、中間、駕護かき、用人、すべての武士の家族の使用人は士族となり、一ぺんに10倍の50万人の士族が生まれた。私の卒業証書には福岡県士族と氏名の右肩に書いてあるのが戦時中売り喰いしたカラッポのタンスの中に写真共々残っていた。

街の通りには牛に引かせた肥桶車が通り、軍都だった市内には陸軍の3部隊の軍馬や馬車馬の糞が砂塵と共に巻上っていた。ゴミ箱はリンゴ箱をコールタールで黒く塗ったもので市の衛生車が車力(大八車)で週一回回収していた。いかに当時はゴミ等少なかったか考えさせられる。

生家の前は三井電気軌道の単線線路で、当時甘木町より日吉町を経て福島町(現八女市)迄の日本で最初に輸入した京都市電の払下げ電車で、大正2年開通時は叔父貴がこの会社の土木主任兼電気主任でその次弟の叔父はこの電車を冗談半分に神武天皇時代の電車と言っていた。

数年前豊橋市での鞘翅学会に参加後、大山城から明治村に単独で参観に行った折、この京都市電が1km程実動しており、「きょうと発とうきゃう行」と書かれた車輌に乗車して70年前の少年期に筑後川宮ノ陣の水浴場に夏場に通った当時がしきりになつかしかった。

戦後昭和25年以降は朝鮮戦争時の特需ブーム以降、日本中高度成長期を迎えて今日迄何不自由ない時代とはなったが、昭和16年から25年迄食糧も住宅も衣料も不足で年中ひもじい日々を送って来たのを懐古し、かえり見れば悲しくもなつかしい想いがする。